Prologue


わからない、わからない!

破裂しそうな程波打つ心臓を押さえる。苦しさ故に膝を付き、浅い呼吸を繰り返す。
キッドは一瞬迷った後、傍らに同じ様に膝を付くと、その背をゆっくりと擦った。微かな温もりに、ふ、と呼吸が楽になる。

「…お前、名前は」

しばらくしてかけられた声に、脳が遅れて反応する。

名前…。私の、名前?
混乱から抜け出せない頭をフル回転させる。

「…
「そうか、か。さっきも言った通り、オレはキッド」

ゆるゆると顔をあげると、綺麗な青色の瞳がそこにあった。

「(ああ、夢じゃないんだな)」

瞳の美しさと比例して、自分の心が暗くなったのを感じた。

「もうすぐ日が暮れる、ここじゃあぶねーから…歩けるか?」

が返事するよりも早く、キッドがの手を取ってゆっくりと歩き出した。

「(どこに行くんだろう。これから、どうなるんだろう)」

何もかもわからなかったが、繋がれた手の暖かさに少し安堵し、はただキッドについて行く事にした。

「ここ、オレが今日泊まる所なんだ」

暫く歩くと、一軒の建物が見えて来た。
協会の塔のように尖った屋根、所々欠けた、れんが造りの建物だ。

「見た目はちょっとボロいが…。まあ、一晩越す分には我慢してくれ。明日にはパレポリに着くから」

元々は物置だったのだろうか。大小様々な木の箱がそこらじゅうに置かれており、乱雑な雰囲気のわりに埃っぽさは感じない。
キッドに促されるまま小さい木の箱に腰掛けると、中を見渡した。広さは八畳ほどだろうか。奥には小さな暖炉があった。
キッドは隅に纏めてあった枯れ木を暖炉に入れると――一瞬の内に火を熾した。

「?!!い、今のどうやって?」

放心していたは単純に驚いた。
見た所マッチも何も持っていない彼女が、一体どうやって?
やっとまともに反応したに、キッドが小さく笑った。

「エレメント使ってそんな反応されるなんて初めてだな」
「エレメント…?」
「簡単に言うと…火とか水とか、そんなのが出せるんだよ」
「それって、つまり魔法って事?そんな事が出来るの…」
「……」

パチパチと火の爆ぜる音が響く。
の顔をまじまじと見ていたキッドが、静かに口を開いた。

「お前さ…こんな世界知らない、って言ったよな」
「…」

黙って頷く。
先程のモンスターを思い出して、治まった筈の震えが再び戻って来た。

「て事は、ただの記憶喪失って訳でもないんだな」
「…」
「言いたくねーなら無理に聞かないが…このままって訳にもいかねーだろ?」
「……私は…日本と言う国で生まれて…」

長い沈黙の末、 は自分の頭を整理する為にも、ゆっくりと話し出した。
国の事、世界の事、自分の事。勿論、モンスターや魔法なんてものの存在など皆無だった事。
キッドは暫く黙って聞いていたが、ひどく神妙な顔つきになり、やがて話し出した。

「ここはゼナン大陸パレポリ。十四年前にガルディア王国を滅ぼして造られた国だ。もちろん世界中のどこにだってモンスターはいるし、エレメントなんかガキでも使える」
「……知らない。そんなの、本当に、聞いたことも…」
「そうか」

ややあって、一呼吸置いてから。

「お前…本当に違う世界から来たんだな…」

キッドの言葉が、に重くのしかかった。
そして、それと同時に。

「信じるの、こんな話」

そもそも自身がまだ疑っているのに。違う世界から来たなどと、普通は誰も信じまい。嘘をついているか、頭のおかしい人間だと思われるのが筋である。それとも、ここにはそんな人間が沢山いるとでも言うのか。
の問いに、キッドは頭を振る。

「じゃあどうして」
「…なんて言うんだ。お前、そんな嘘をつく様な奴に見えねーし、そもそもそんな嘘ついて何になるってんだ」
「…それは、そうだけど」
「オレは長い事旅をしてきて、良い奴も悪い奴もうんざりする程見てきた…だから、目を見たらわかる」
「…!」

は固まった。会ったばかりの人間に恥ずかしげもなくそんな事を言われ、どこか照れくさいような、むず痒いような、そんな感覚に陥る。そして今度は別の不安が襲って来た。

「(…これから、どうしたらいいんだろう)」

いい加減、残念ながら夢でない事が解っていた。
何故こんな世界に来てしまったかは解らないが、ともかくこの先――何の知識もない自分が、モンスターなどのいるような世界で生きて行けるのだろうか。

不安に押し潰されそうになり、俯いた瞬間、頭上から明るい声が振って来た。

「まあ、ここで会ったのも何かの縁だ、オレが面倒見てやるよ!」
「……え?」

素っ頓狂な声はキッドに届いていなかったようだ。
見上げると、キッドはいつの間にか小さなカップを二つ持っていて、その一つを に渡してきた。それを半ば無意識に受け取りながら、後ろを向いたキッドの背に視線を送る。

「面倒って、あの」
「なんだ?行くアテでもあんのか?ないだろ?」
「…ないけど、どうして」
「お前、今どんな顔してるかわかるか?捨てられた猫みたいな顔して、そんな顔した奴ほっとけるかよ」

早く飲めよ、と促され、言われるがままカップに口を付ける。柔らかいお茶の香りと温かさに、体の凍った部分が溶けていく感じがした。

「…ありがとう」

小さく呟いた声は震えていたが、確かにその場に響いた。
今はただ、この温かさに任せていればいい。 はそっと目を閉じた。
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