27
夢だと思いたかった。目が覚めれば、キッドと旅をしていた、 無邪気に笑いあっていたあの頃だと思いたかった。
足元からじわじわと闇が迫ってくる。 逃げようとすればするほど闇は纏わり付いてきた。 逃がさないと言わんばかりに…。
「助けて」 と声を上げようとして、やめた。
この闇を、ずっと待っていたくせに。
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記憶が曖昧なまま目覚めるのは何度目だろう。頭は重く気分は最悪だった。
その上全身にひどく汗をかいていて、背中に濡れた服が張り付く不快感に、たまらず上体を起こした。
「よう、目が覚めたか?」
「……キッド…?」
自分が転がっている堅い岩。藍色の空から覗く黄金の月…とても懐かしい光景だった。そう、 初めてキッドと出会ったあの夜のよう。
もしかして、今までの事は全て夢だった?ここからまた、 一から始まるんじゃないか…。そんな、淡い期待を持ってしまう。だけど、世界はそんなに甘くないのだ。
「セルジュも心配してたぜ」
彼女の唇から紡がれる言葉に、がくりと肩を落とす。
どっちのセルジュ?聞くだけ無駄だ。
「(…あの瞳の赤い色を、 こんなにもはっきりと思い出せるんだもの)」
ふらつきながら立ち上がる。体は万全ではなさそうだが、 そんな事はどうでも良かった。
「?どうした?」
「キッド…私…」
心の整理がまだ付いていないこの状況で『彼』に会うのが怖かった。
「ここにはいられな──」
左右を見渡しながら後ずさった背中に、何かがぶつかった。
あっと思った時には既に遅く、後ろから力強く抱きしめられていた。それが誰かなんて言うまでもない。
「どこへ行く、」
ぞわ、と。全身が粟立った。逃げ出してしまいたいような密かな恐怖。身体中の血液が凍ってしまいそうな心地なのに、触れられた場所だけがやけに熱く感じられて、その温度差に混乱してしまう。
「…ようやく触れられた」
「……フェイト…」
安堵したようなその声に、恐怖が一瞬で切なさに変わる。きゅう、と胸を締め付けられる感覚に泣きたくなった。
離れてからどれだけ時が経った?どの位私を探してた?
クロノポリスで出会った、あの時のあなたとは違うのに。声も、体も、セルジュのものなのに。悲しいのに、嬉しい、なんて。
「おーい、オレがいるの忘れないでもらっていいかー」
様子を見守っていたキッドが、痺れを切らした様に声を掛けてきた。はっと我に返って、慌ててフェイトの腕から抜け出す。彼の顔を見ない様に。
呆れた様子でこちらを見ているいつもと変わらぬ様子のキッドを見て、あれ?と疑問が浮かんだ。クロノポリスで過ごす時間が長かったせいなのか、記憶がごちゃごちゃになって今まで何とも思わなかったけれど。
「…キッド?」
「ん?」
「これ、誰?」
視線はキッドに向けたまま、フェイトをぞんざいに指さす。
「『これ』とは随分な物言いだな…」
「これ」扱いされたフェイトは若干不服そうな声を上げたが、そこは無視した。
「何だ?セルジュの顔忘れたのか?」
「古龍の砦でに出来事、覚えてないの?」
「ん…?古龍の砦…?何だ、そりゃ」
「ほら!龍の涙で、セルジュとヤマネコが入れ替わって、あなた刺されたじゃない!」
すぐ後ろにその本人(しかも敵)がいるのも構わず捲したてるも、キッドは「ははは」と軽く笑っただけだった。
「俺は古龍の砦にも行ってないし、刺されてもいない。変な夢でも見たんじゃねーか?」
「え…えええ……?」
よくよく観察すると、刺されたはずの腹部に傷跡が見当たらない。
おかしい。おかし過ぎる。確かにフェイトに好意は持ってしまったが(この言い方もどうなんだ)それとキッドの事は話が別だ。
「ちょっと、あなたキッドに何か……何?!そのファッション??!!!」
フェイトを問いただそうと振り返ったは、彼の姿を見てかつてない大声で叫んだ。
素朴な服装から一変、全身真っ黒。精神が変わったから仕方ないのだろうけど、あまりにも違いすぎる。何より一際異彩を放つ髑髏の付いた帽子から目を反らせない。
「しかも、えっ、やだ。何その帽子、ださっ。ギャグのつもり?」
「イメチェンしたんだ。なあ、キッド」
「ああ、そういやそうだな」
「待って。無視なの?帽子はスルーなの?それでいいの?」
の突っ込みは二人には届かなかったようだ。キッドは気だるそうに伸びをする。
「さあて、も目覚めた事だし、どうするんだ?セルジュ」
「ああ、だいぶ時間が掛かってしまったが、凍てついた炎の元へ行こうか…だがその前に」
空気が変わった。にやりと笑う姿に嫌な予感しかしない。
「どうやらしぶとく帰って来たようだからな。一度挨拶をしに行くとしよう」
お願いだから、一度心の整理をさせて欲しい。
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どうやらテルミナの近くだったらしい。夜も濃くなって来たので急いで町に入って宿を取り、今日は休む事となった。
「私と一緒で良いだろう?」
「何言ってんの?!ばか!」
当然男女で別々の部屋である。それにもかかわらず肩を組んで部屋に連れ込もうとしたフェイトの腹に肘を打ち込み、憤慨しながら女子部屋に入る。
痛みに小さく唸るフェイトを見てキッドが「おい、いいのか?」と声を掛けてきたが「いいに決まってるでしょ!」と言い捨ててそのまま扉を閉めた。すぐにキッドも入ってくる…にやにやと楽しそうな笑みを浮かべながら。
「おいおい、水臭いじゃねえか」
…なんだろう。この既視感。
「いつの間にセルジュとそんな仲になったんだ?あいつ、だいぶお前にお熱じゃねえか」
「お、お熱ぅ?」
そう言われれば、そう言う事になる…のだろうか。
「行くな」とか「隣からいなくなるな」とかは言われたが、相手のそれが「好き」だとはっきり告げられた訳でもないし…。
「(あ、でもツクヨミが言ってたな…私を愛し、憎んだって……)」
憎んだとは穏やかじゃない。
「(いやいや、そもそもキッドとこんな話はしちゃ駄目だ。キッドにとっては仇なんだから…ていうかセルジュじゃないし!)」
頭を振って気持ちを切り替える。
「いやあ、セルジュがお前の事気にしてるのは前から薄々感じてたけどよ、まさかお前まで…」
「ご、ごめんキッド!今日は疲れて早く寝たいから、先にシャワー借りるね!」
まだ話をしたそうなキッドを誤魔化すようにあしらい、逃げる様に浴室へ飛び込んだ。
「はあ……」
蛇口を捻ってお湯を溜める。小さいバスタブにはすぐいっぱいになったので、その場で適当に服を脱いで湯に浸かった。身を縮めて無理やり肩まで浸かると、やっと一息付く事が出来た。
「何から整理したらいいのか…」
フェイトが「挨拶に行く」と言ったのは間違いなくセルジュだろう。
フェイトがセルジュと接触する前に、セルジュに会った方がいいのか。だけどキッドと二人きりにするのも、何をしでかすかわからなくて不安である。そもそも自分はどうしたいのか。
「……なんか、私悩んでばっかだな…」
ぶくぶくと音を立ててバスタブの底に沈む。結局どれだけ悩んでも答えは出なかった。
すっかり冷めてしまった湯から上がり、適当に体を拭いて備え付けの寝間着に袖を通す。
「ただいまー……」
「遅かったな」
「……??!きゃ、きゃーーっ!!」
タオルで頭を拭きながら扉を開けると、何故かそこには外套と問題の帽子を脱ぎ、いくらかラフになった姿のフェイトが椅子で寛いでいた。
「いつの間に入って来たの?!キッドは?!!」
「二人きりにしてくれと頼んだら外してくれたぞ」
「キ、キッドの馬鹿…」
気を効かせたつもりか。親指を立てて笑顔を浮かべるキッドの姿が目に浮かび、は頭を抱えた。
フェイトが椅子から立ち上がったのを見て、反射的に距離を取る。フェイトが一歩進めば、が一歩下がる。そんな事をしていると、じりじりと間を詰められ、とうとう壁に背中が付いてしまった。
しまった逃げ場がない。顔を引き攣らせるに、フェイトは心底不思議そうな顔をした。
「話をしに来ただけだと言うのに、何故そんなに怯える?」
「い、言っておくけどね。私、あなたの思う通りにはならないから」
「それは残念だ」
ちっとも残念そうではない。くっくっくと笑う姿に腹が立った。
「…私の傍にいてくれるのだろう?」
そっと囁かれた言葉に、呆然と彼の顔を見上げるしか出来なかった。
「──…っ」
「行くな」と弱々しく首を振っていたかつての姿が蘇り、ぐっと言葉に詰まった。
「……そんな事言うのは、ずるい」
「何とでも言えばいい。お前は私のものだ」
「あれは無効…」
下を向いて顔を逸らすのは精一杯の強がりだった。
今までの自分。築き上げてきたもの。 触れてしまったら跡形もなく崩れてしまうこと、知っていた。だけど、それよりも。その腕を、眼差しを、振り払う事など…到底出来なかった。
結局どれだけ悩んでも、答えは決まっていたのだ。一度堰を切ってしまった感情は、決して止めることは出来ない。
「ほんと、ありえない…」
ぽつりと呟いたそれは、自分に向けた言葉だ。
あの体はセルジュのもの。彼は、 セルジュの敵だ。
ヤマネコ時代の悪行を恨んで、 せめてもの抵抗とばかりに思い切り爪を立ててやった。それでもフェイトは笑みを崩さない。それがますます癪に障る。
「なんで…なんでセルジュの体なの?早く返しなさいよ…」
「それは出来ない相談だな」
「どうして」
冷酷非道として知られる彼からは想像出来ない程、頬を撫でる手は優しい。
「どんな理由があるっていうの」
「全てお前のためだ」
「…は?」
驚いて顔を上げたその瞬間、視界が回転した。背中にベッドの柔らかな感触。
突然の出来事に脳内は一気にパニックに陥った。
「ちょ…ちょっと…!」
「私が再びクロノポリスに降りるには、この体が必要なのだよ」
「それと私、何の関係が…」
「クロノポリスへ行き再び世界の権限を手に入れ──私はお前と永遠を生きる」
フェイトの瞳に妖しい色が走った。獲物を見つけた獣のようにぎらぎら光る瞳に、もうこの男からは逃げられないと瞬時に悟った。
ツクヨミの言った通りだ。せっかく色々忠告してもらったのに、こんな結果になってしまった。それとも、なるべくしてこうなったのか…にはわからなかったし、もはや今更であった。
「(そういえば、どうしツクヨミは知っていたんだろう…?)」
「考え事とは余裕だな」
「ひえっ」
額がくっ付きそうなほど顔が近付けられ悲鳴を上げた。
「ち、近いよ…どいて…!」
怯えながらも強がるをみてフェイトは笑う。
「そうだな、せっかく『人』の体も手に入れたのだから、子孫を残すのも悪くないな」
「………??!!」
トンデモ発言に絶句である。
この男は、何を言ってるんだ。
「ちょ、だから」
「人と神の…新しい種が誕生するかもな」
「ちょっと待っ…」
人の話を聞いちゃいない。
つう、と。フェイトの手が腰に移動した瞬間。
「い、いい加減にしろーーー!!!」
完全に許容量を超えたの、盛大なグーパンが炸裂した。